一心通信建設(株)設立5年目、昭和50年の8月21日、享年52歳という若さで母は他界した。
この時には、3社目を立ち上げて新体制で出発したばかり。設備投資や人材確保に大わらわの時期であった。
会社や個人のお金も底をつき、疲労困憊の時期でもあった。
このタイミングで、訃報の知らせである。それを聞いた瞬間は、不謹慎にも私は、「こんな時によりによって・・・・」と思ったものだ。
あたふたと実家に帰って、父と通夜や葬儀などの雑用をこなしていると、時間の経過とともに、会社の心配事でいっぱいだった頭の中のロケーションがゆっくりと変わっていくような気がした。
まるで、劇場の幕が上がってその奥の新しい景色が現れるような・・・・・。
そこに、在りし日、私の幼い頃の母の厳しい顔があった。
親族、特に、母親の死ともなれば、どんな人でも共通して“ある種”の後悔の念を禁じ得ないと思う。
“後悔、先にたたず”である。
そして、その“ある種”とは、一義的に、子供としての“恩返し”が出来なかったこと、つまり、“親孝行”の不足に対する後悔の嘆きであろう。
それが、私の場合、“親孝行”どころか“親不孝”、そのものの母子関係(後述)であった。もちろん、“恩返し”など真似事もしてなかった。
この結論に、遅ればせながら、やっと目頭が熱くなった。
母は、私が中学1年の頃からリュウマチを患い、私が高校に入るころには全身リュウマチと診断され、寝たきり状態であった。
その頃のリュウマチの治療と言えば、たぶん、痛み止めやモルヒネなどの注射くらいしか方法が無かったのだろうと思う。
直接の死因は大量の薬による副作用だったのか、随分と苦しんで最期を迎えたと聞いた。
一方、父の職業は、貨物船やタンカーなどの船乗り一筋で2~3か月に1回くらいしか家に帰らない生活であったが、その頃は、すでに5年以上も母の看病のため、船を下りて、慣れない造船所で働いていた。
この父の母に対する献身的な看病は、近所でも有名であった。
今でも、私には真似のできないことであろうと敬服している。
ところで、私がここで、なぜ、母の死を持ち出すかというと、それには訳がある。
それは、良くも悪くも、私の人間形成に彼女が一番深く関わっているからだ。
したがって、当然、幼い時から染みついた気性が会社の経営に関わる人間関係や社内におけるリーダーシップの基本的スタンスなどに間接的に彼女の教えとして私の中から出入りする。
前述したように、なにしろ、父は年に5~6回しか家に帰らないわけであるから叱られたことも無ければ大して褒められたことも無く、印象的な出来事を覚えていないくらいである。
ただ、船の出港や、帰港の時の送り迎えが母の嬉しそうな顔と共に楽しい日であったことは思い出せる。
つまり、家では母が父親の役割も兼任していたわけである。
幼い時の厳しい体罰も日常茶飯事の母親であったが、一緒に、海に釣りやカニを取りに行ったこと、毎年、秋の松茸狩り、自転車も運転できるようになるまで訓練してくれたことなど鮮明に覚えている。
普通は父親のすべきことであり、母親が子供に対して、まず、やらなかったであろうことを彼女はこなしていたと思う。
それほどに、私は母親の影響を全身に受けて育ったわけである。
その母から身に付けたことで役立っていることは多い。
常日頃から、彼女は、私に「惣行、大きくなったら金持ちになってほしい。
別に貧乏が悪いわけではないが、誰かのお見舞いに行っても他の人が3千円のお見舞いをしても自分が千円しかできないと恥ずかしいし、悲しくもなる。
お金の金額によって、こちらの気持ちが伝わらないように感じることがあるから。」と言っていた。
また、母は、私が家に友達を連れてきて遊んだり、勉強をすることを、ことのほか喜んだ。
そして、私に妹が一人しかいないため、必ず、こう言った。「〇〇ちゃん、これからも惣行と友達になってやってね。」
思えば、私の仲間づくりの原点は、ここにある。そして、それが、会社創りの基でもあるのだ。
“人的投資”、“人脈経営”など、これまでの私の経営の中身は、“人”が中心であり、それが、すべてと言っても過言ではない。何よりも目に見えない“人づくり”のためにお金を使ったと言える。
高校3年生の時、面白半分に酒を飲んだことが母に見つかったことがあった。
病で床に臥せたままであったが、「惣行、これから大人になって酒はいくら飲んでもよいが、飲みながら明日の仕事の計画や、やらねばならないことの優先順位を考えながら飲みなさい。」と、全く怒ることなく、むしろ、いつもより落ち着き払って言ったのは忘れられないでいる。
以来、47年も経ったが、深酔いした同業者の洗礼を受けた社員引き抜き事件(第3話 無知と無謀と・・・・参照)を除き、酔っぱらって人に連れて帰ってもらったり、千鳥足で他人の肩を借りたりしたことは一度も無い。
最近でも、冗談で、よく人に、「あなたが酒を飲んで酔っ払ったのを見たい」と言われることがあるくらいだ。
母は、また、私が、新入社員の確保が難しいと嘆いていた時、寝床から「私が元気なら町中を駆け巡って探してあげられるのに・・・・・」と悔しがっていたが、あれは、私に対する慰めでもあったと思う。
・・・・・・・・・E.T.C
このように、私は、何処から見ても、間違いなく生粋の母親っ子であったと思う。
それなのに、晩年の母の入院先にすら、ろくに行かなかった私である。
会社さえ軌道に乗ってたら“あれもしてあげたかった”“これもしてやりたかった”など次々に果たせなかった事ばかりが頭の中を去来する。
ただ・・・・、この頃、「母親の病どころではない。私には、会社経営と言う大変な役割と重責があるのだ。」などと無意識のうちに傍若無人に振る舞っていた自分がいたのではないか・・・?
この時、ここで、私は、誰もが注目するような若さで経営者になった自分を、いつのまにか、並みの人間とは違う存在だなどと驕っていたことに気が付いた。
ひとたび我に返れば、母親の死に直面した私が味わい、後悔している中身は、世界中の人間のそれと寸分の違いも無かったのに・・・である。
期せずして、母の死は、“謙虚”と言う言葉をくれたような気がした。
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葬儀が済んで2日ばかり経つと現実が覆いかぶさってきた。
会社は、さらに、借金地獄へと落ち込んで行く。
考えることは、もはや、たった一つしか無かった。
何が何でも、母のためにも「立派な会社を創る!!」