会社設立後、3年目の春だった。
期せずして、同業の社長から、その頃の元請け会社である広島建設工業(株)様以外の元請け企業の仕事を紹介してくれる機会が訪れた。
その元請け会社は東京に本社を置く全国展開の協和電設(株)様で現在の(株)協和エクシオ様(社名変更)であった。
わが社は万年赤字の様相を呈していたし、何か新しい手立てを考えていた折から、“攻撃は最大の防御なり”とばかりに、すぐ話に乗った。
会社創立以来、久し振りにワクワク感が体中を駆け巡っていたのを覚えている。
それもそのはず、これまでの元請け1社から受注先が2社に増えるという画期的なことが起こりそうなのである。
まさに、“井の中の蛙”が“井の外”に出て行く様を頭の中で描いていた。
依頼された工事は愛媛県の松山市内の大型工事であった。早速、知り合いや同業者を通じて協力業者や従業員を集め、着工にこぎつけたものだ。
しかし、ここで、難問があった。
当時、電電公社からの工事は、電電公社の“認定会社”と称する元請け企業(中国地方では3社)に発注されるが、その認定会社のそれぞれの下請け会社は暗黙の了解事項としてその元請け会社に専属的な意味合いで登録されていた。
つまり、私たちの一心通信建設(株)という会社では広島建設工業(株)様という元請け会社以外の元請け会社の仕事を受注することは極めて困難な環境であったと言える。
さらに、私たちを社員時代から請負が出来る会社までに育てたとも言える広島建設工業(株)様にとっては、他の元請け企業、つまり、ある意味においてライバル会社の協力業者となることを喜ばしく思うはずは無かった。
では、どうすればこの度の仕事を受注できるのか・・・・・?
そこで私が考え出した苦肉の策(?)は新会社の設立である。
早速、これまでの知り合いの同業の社長の中で、私に好意的な方々(と言っても2~3人)に声をかけたり、元の社員時代の友人に電話工事の経験者の紹介をお願いしたりもした。
そうして、この時の工事に協力してもらう人たちと一緒に、日王通信建設(株)と銘打った会社を設立、私が代表取締役社長に就任した。
日王とは単純に日本の王様と言う意味である(笑い?)。
それは、ともかくとして、これで2社の元請け会社から仕事を戴ける体制だけは整ったわけである。
当時、この業界で複数の元請け会社から仕事を受注する体制を考えたのは少なくとも中国地方では私が初めてだったと認識している。
そのため、業界ではさまざまな物議(大半は批判的であった)を醸しだしたものだ。
が、あえて、ここでは、その具体的なことには触れないでおこう。
ところで、この日王通信建設(株)の設立時から仲間として協力をして下さった辻邦夫社長が、今だ、忘れ得ぬ人である。
彼は、私よりちょうど一回り(12歳)年上の同業の社長であったが、この新会社の取締役を引き受けて下さり、受注した工事の施工に惜しげもなく自社の社員を動員して尽くして下さった。
そして、何よりも彼から中小企業の在り様について、私とは異なる経営手法を学んだことが新鮮で、楽しかったものだ。
この時、彼から学んだ私には無かった経営手法とは、中小企業の典型的な“家族経営”であった。
彼の会社では、取締役に奥様を就かせてその優しさで社員の福利厚生面の充実を図り、実弟には現場実務を中心に、専務取締役として大切な片腕の役割を担わせていた。
私の会社は他人同士の集まりなので珍しささえ感じたものである。
そのことは、そっくり物まねをしようにも物理的に不可能であったが、中小企業に最も必要で最適な要素が“家族経営”の中に確実にあることだけは目の当たりにした。
それこそ、私が望んで止まない“団結心”そのものであったからだ。
“団結心”は、“愛社精神”を生み、限りなく“会社の繁栄”を育む。
元来、家族や親せき関係の少ない私にとって辻邦夫社長の家族経営は、正直に言うと、少しばかり羨ましくもあった(だからと言って、自分の環境に不満があったわけではない)。
ただ、気を付けて同業者の会社の中身をのぞいてみると80%以上が家族経営であった。
それまでは、私がそのことに気がつかなかっただけの事だった。
法律用語や商法用語で、“同族会社”と言うのだと、この時、学んだ。
そして、私たちの業界に限らず、中小企業の会社形態としては同族会社でないとその経営が困難であるのかも知れないという不安も感じたりした。
しかし、私や仲間たちは、もはや、後戻りも、立ち止まることも許されないところまで来ていた。
「やるしかない!」のである。
話は変わるが、辻邦夫社長は、若くて、無知であるがゆえの私のさまざまな苦悩を察知していたのか、ことのほか優しく接してくれた。
そして、彼の天性の明るさが、ともすれば、二つの会社の運営で重圧を感じていた私にとってどれだけ励みになったか計り知れない。
ところで、私は、元来、欲張りな上に、他人から借りを受けることが人一倍、嫌いだという超わがまま人間だと自覚している。
したがって、いまだに飲食など、“奢っても奢られない”などと言うある種の傲慢さを通させてもらっているが、過去に唯一、この辻邦夫社長に関してだけは奢られっぱなしであった。
さて、こうして出発した日王通信建設(株)であったが利益をあげて順風満帆とはいかない。
経済的には、言わば、収支トントンと言ったところであった。
しかし、会社を二つ持ったメリットは少しずつではあるが、確実に出始めて来た。
それは、社員ひとりひとりの労働力や設備、備品、工具などの兼用ができる事、また、社員の士気の高揚、新入社員の確保、などであった。
とりわけ、工事受注の拡大という面においては当初の狙い通り画期的であったと今でも自負している。
今、考えれば、私が“商売のやり方”には、いろいろなアングルがあるものだと意識し始めた最初の試みであった。
以来、私の経営戦略の中では、その時の財務事情や周囲の環境が許す限り、“面(取引先やテリトリー)”の確保は重要な要件となっている。
しかし、“面”の獲得にはお金や精神的、肉体的を含め、大きな瞬発力、エネルギーを必要とするのは言うまでもない。
わが社のように、弱小資本からスタートした会社は、常にリスクを覚悟の経営を強いられがちである。
しかし、それを恐れていては何も進歩しない。
将来に禍根を残さないためにもその時点での持てるパワーをすべて出し切るべきであろうと私は今でも思っている。
また、それが仮に失敗したとしても何もしないでやりすごし、「もし、あの時、挑戦していたら・・・・」と、ほぞをかむよりはよほど良いはずだ。
ただし、その時のその案件が、挑戦するに値する案件であるかどうかは幹部の合議制の中で経験なども踏まえて熟慮すべきであろう。
それは、その挑戦の失敗が会社の致命傷になる場合もあるからだ。
さて、2社体制の経済的な状況は、相も変わらず、一心通信建設(株)は赤字経営、日王通信建設(株)は可も無く、不可も無くの状態で設立後すでに4年も過ぎようとしていた。
その頃、私の“面”拡大戦略を見透かしたかのように、また、もう一社の元請け会社から工事の発注依頼がきた。
ちなみに、この会社は光和建設(株)様と言い、現在は、広島建設工業(株)様と合併し、(株)ソルコム様となっている。
迷わず、この仕事も引き受けることとしたが、それには、さらなる別会社を必要とした。ここで、また、辻邦夫社長のお世話で休眠会社“東広通信(株)”を譲り受け、私が代表取締役に就任した。
これにより、私たちは、ついに、中国地方5県で電電公社発注工事のすべての下請けができる体制を確立したのである。
こうして、創業以来、あっという間に創立5年を迎えようとしていた。
私たちの3つの会社は、専属下請けを加えると70人くらいにもなっていただろうか、その頃の私一人の能力では、そろそろ管理の限界を感じるようになっていた。
が、それより、何より、元請け3社に対して、私一人での対応では、極めて困難な環境になりつつあった。
それに、もう一つ、そろそろ、私は創立時の7人が、各々の城を持つという当初の計画の実現を急ぎたかった。
一日も早く、仲間への思いを果たしたいという気持ちが常にプレッシャーになっていたからである。
そこで、3社のうち、日王通信建設(株)を除いて、他の2社は社長を交代し、私は代表権のある会長に就任した。
当時、28歳の会長は、一般社会では異様であったに違いない。
しかし、ここに、現在の“一心グループ”の基本形が誕生することとなったのである。