さて、暗中模索の毎日の中、嬉しいことも起こった。
以前より、見るからに危なかしい若者集団(私たちのこと)に、何くれとなくアドバイスを下さっていた、当時、電電公社松永局で経理係長をされていた新谷保則氏(故人)が私たちの会社に入社して下さったのだ。
彼とは会社を立ち上げる前から私の知人を通して知り合い、何か解らないことや悩み事があると気軽に夕食へ誘ってお酒を飲みながら教えを乞うような間柄であった。
しかし、まさか、「眞田社長の会社で一緒に苦を分かち合いたいね。あなたの、そのひたむきさが好きだ。」などと言ってもらえるとは夢にも思っていなかった。
それに、彼は、私よりも18歳も年上の43歳であった。
「とんでもない偉い人が、しかも18歳も年上の人がわが社のようなちっぽけな会社へ来て下さるなんて!」と感動しきりであった。
まさに“拾う神あり”だと思ったものだ。
彼には本職である経理を担当してもらい、取締役経理部長の肩書とした。
入社後の彼は、すぐに、コストダウンのための諸施策に手を付けてくれた。中でも圧巻は、私の交際費にクレームを付けたことだ。
ある夜の事、私がいつものように、尾道市内のバーで接待をしている時の事である。
調子よくビールを2~3本開けた頃、突然、その店のマスターが現れ、「はい!一心の社長、あなたの今夜の酒はこれで終わりです。これ以上は、会社での支払いはできないとお宅の経理部長さんから言われています。」ときた。
私は接待のお客様もそこそこに、店を飛び出し、新谷経理部長の家にまっしぐら。
心配そうな彼の奥様の眼もはばからず大喧嘩になった・・・・・・。
今、考えると恥ずかしさは通り越して、自分のことながらあきれるばかりである。
その夜、私は家に帰って、朝方まで、ただ、ひたすらに酒を飲んだ。
自分の身勝手さの反省だったのか、バーで接待している最中にお客様の前で恥をかかされたと逆恨み(?)の思いがあったのか、まさに未熟者が頭を打ったやけ酒ではあった。
この頃、わが社では、給料の遅配は常習だった。
新谷部長は、自分の貯金をおろして会社の経費の支払いに充てたり、自宅を抵当に入れて、銀行からお金を調達し、社員の給料を払ってくれていた。(創業の私たち7人は誰一人、銀行の借金に差し出す担保物件など持ち合わせていなかった。)
彼の口癖は「私の命の三分の一は会社のため、また、三分の一は家族のため、残りの三分の一は自分のために賭けている」と言っていたのを思い出す。
今、私は、この新谷部長の言葉を思い出しては噛みしめている。
そして、もう一つ、新谷部長が、常に、言ってくれた言葉も私の宝として抱いている。
それは、私が何かで落ち込んでいると察知すると、「社長、山より大きな獅子は出ませんよ」と元気づけてくれた言葉である。
当時、この言葉で何十回と言わず、しょげ返っている自分が救われたことか。
あれから50年経った今も、私にとっては、新鮮で、最高の珠玉の言葉である。
今は亡き新谷部長であるが、もし、彼がいなかったら今の私や一心グループは無かったかも知れない。
新谷部長を得たわが社は、経営こそどん底であったが、新しい常識人に教えを請い、徐々にではあるが、社内の雰囲気が会社らしくなっていった。
ところが・・・・・である。
新谷部長を迎えた喜びもつかの間、会社設立後、2番目の新入社員であった児玉君が、電柱から落下した。両足の複雑骨折である。重症の極みだった。
目の前が真っ暗になった。
当時、いくら、新入社員を募集しても応募すらない状況の中、彼は、私の知人を通して、はるばる宮崎県から入社してくれた23歳の好青年であった。わが社にとって俗にいう“金の卵”そのものであった。
復職は無理、将来の歩行も絶望であろうと医師は言う。
多くの方が宮崎県からお見舞いに来られた。そして、お叱りも受けたが、私は、何一つ、言葉が出なかった。
さらに、「武男がもし、嫁ももらえない体になったら社長に責任を取ってもらいます。」と言われ、いよいよ、頭は真っ白になった。
彼のお母さまが来られるまで、付添人の費用が無いため、当面は、役員の妻が交代でそれを務めた。
問題は、保険金で賄えない費用が予想もしないほど嵩んできたし、保険金の支給までの立て替え払いすらできない状態であったことだ。
やむなく、元請け会社にお願いをして、お見舞金という形のお金を戴き、治療の継続に見通しがついたことは九死に一生を得た思いであった。
それからの児玉君は、2年以上の入院、さらに5年間くらいは、入退院の繰り返しという、まさに、地獄の苦痛に耐える生活を強いられたのである。
私たちが病院に見舞に行くたびに、人一倍気丈な彼が、「もう、死にたい」と言う。
足を切開し、金具の装着、また切開して取り外し、切開して、不具合の調整もあったであろう。
それらの作業が何回、いや、何十回あったのかは聞きたくなかったので、私は聞いていない。
ただ、どうしようもないやるせなさというのはこういう事であろうか、悶々とした日々が続き、夜の私の酒量は増えた。
しかし、奇跡は起きた! 彼は、たくましかった!!
物の見事に復職できたのだ。さすがに彼の足は完全に元通りとはいかないまでも立派に歩けるし、電柱にも昇れるようになったのだ。しかも、彼は「現場で復帰したい」と言う。
実は、私は、復職が可能とは言っても、彼には事務職しか無いと思っていたので、二重の驚きであったし喜びであった。
当然ではあるが、彼の担当医にも心から感謝であった。
さらに、彼は、もう一つ、大きなお土産を私にプレゼントしてくれた。
何と、彼は、入院中、私たちの知らぬ間に、病院で知り合った女性と恋愛中であったのだ。
私が、小躍りして間髪入れず、彼をけしかけて(?)結婚の運びに急がせたのは言うまでもない。
彼女の家にご挨拶を兼ねて、彼女との結婚をお願いに行った。私自身が結婚する思いと全く同じ感覚であった。
彼の事故の直後に彼の親族から言われ、私の頭から離れなかった“武男の嫁、云々”の事がようやく解決しようとしていた。
それもこれも、彼自身が、きっちりと解決してくれたのだ。
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会社の経営状況は相変わらず、健全経営にはほど遠かったが、この児玉社員の職場復帰とフィアンセの件は私や幹部、また社員にとっても、ある、かすかな希望の光となった。
その“光”とは何であったか?
それは、児玉社員のすさまじい闘病生活の中に“生きる”と言う事への“ひたむきさ”を見たこと、そして、同時に“諦めない粘り強さ”を目の当たりにしたことである。
また、私たちの児玉君に対する思いや行動も間違いなく、“ひたむき”であった。
この時、私は、“ひたむきさは、必ず良い結果を生む”と言うことを教わった。
そして、遅ればせながら、以来、会社経営や自身の生き方の処方箋を見つけたような気がしている。
あれから40年以上も経った。
児玉君は、定年退職を経て、現在は嘱託社員として活躍中である。
あの時の彼女、つまり、児玉武雄令夫人も1男1女を育てた母であり、今では、夫婦で、お孫さんを囲んでの生活を謳歌されていると聞いている。